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俳優と作家に出会う -高円寺の出会いの空間-

デートクラブというと、ホテトルを指す場合や、
出会いの空間を指す場合や、会員制交際クラブを指す場合がある。
しかしホテトルをDCと呼んだのは風俗情報誌の方便が始まりで、
あからさまにホテトルとは書けないためである。
基本的にホテトルはホテトル、会員制交際クラブは交際クラブ、
そして出会いの空間をデートクラブと呼んでいたはずである。

そのデートクラブ、つまり出会いの空間は、
1990年代前半に増えた当時最新の風俗だった。
最新といっても1980年代からあるにはあり、
もともとは吉祥寺にこの手の老舗があって、
女子学院などの名門女子高生がいることで知られていた。
未成年が多く在籍し、警察に睨まれていたが、
当時は違法ではなかった。

未成年の少女とハダカで愛撫したり性交したりしても、
14歳以上で合意の上なら、刑法上の問題はなかった。
当時東京と長野には、それを規制する条例もなかった。
ならばなぜそれが当時はなくて、いまはあるのか、
その問題はあらためて書く機会があると思う。

さて1995年頃、高円寺にOPENしたデートクラブがあり、
「OKの子ばかり」云々という意味深な広告を出していた。
お茶だけでバイバイみたいな子はいないらしい。
手入れを受けないうちに通いつぶすべきと判断した。

駅のそばのマンション。入ってから「アレレ」と思ったのは、
店員が俳優の東幹久と石黒賢だったから。
彼らが集めた女の子たちがデート用員だった。

名門の子はいないようだったが、
とりあえず餌食にする女の子を物色していると、
新たにひとり、客が来た。この人も見たことがあった。
直木賞作家の出久根達郎に似ている。
彼の本業は高円寺の古書店主だから、おそらく本人だろう。

うーん、なかなかスゴイことになってきたぞ。
でも別に悪いことをしているわけではないしね……と思いつつ、
私は女の子の輪の中から、ひとり外れた地味な子を選んだ。

店から連れ出して、喫茶店に行く。
お茶しながら「俺でもいいかな?」と聞くと、
「お金なの」とポツリ言うのでホッとした。
話が早い。遊びのルールを知っている子だ。

ホテルの部屋でテレビを見ながら、
おもむろに抱きついてみると、少し腋臭だった。
それが妙にいい。素人はシャワー抜き。
この遊びは、とにかく風俗臭を消すのがポイントだ。
普段通り汚れている、それがナマの楽しみになる。

性交後に抜くと、ゴムが破れていた。
アリャーと思ったが、なんとなく誤魔化した。
女はトボけた顔で、ニヤニヤしている。
気づいてないわけない。どうしていいかわからんのだろう。
私も、どうしていいかわからず、
このことには一切触れないまま、ホテルを出て別れた。

その後、高田馬場で制服姿のこの子が、
白髪の老人とラーメン屋にいるのを見た。
あれがメインのパパなんだなと思い、
少し寂しく思った。

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| 出会いの空間 | 10:37 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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はじめての女 -大久保のプチレモン-

初めて風俗に行ったのは、
17歳のとき。1980年のこと。
祖母がくれる小遣いは、すべてつぎ込んだ。
大久保のファッションマッサージに通いつめ、
やがて男のニーズの粋、イメージクラブの常連に。
毎朝の日課、電車での痴漢をやめられたのは、
イメクラのおかげだった。

しかし考えるに、童貞だった。
20歳までに数百人の女を昇天させながら、
性交の経験はなかった。
不自然だと思った。何かが間違っていると感じた。

ホテトルというものがあることは知っていた。
意を決して初めて電話したのは、24歳のときだ。
たしかプチレモンという店だったか。

ホテルの部屋で待っていると、ボブカットの女が来た。
23歳と言っていた。相本久美子に似ていたな。

性交の仕方というものはないと考えていた。
入れればいいと思ったが、いざとなると場所がわからなかった。
それを察したのか、女が手で運んで、するりと入った。
ぐにょぐにょ動くうちに放出していた。

緊張のため快感はあまりなかった。
初めてなのだと打ち明けようと思ったが、やめた。
女は気づいているようだったが、何も言わなかった。
「まだ若いでしょ」とだけ呟いて、名刺をくれた。

初めての女のことは、忘れないものだという。
なるほどいまでも、よく覚えている。
ただし、名前は忘れた。

| ホテトル | 07:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大久保の「にんじん」 -制服向上委員会の先祖-

1985年ごろのこと。
川端康成の「眠れる美女」に出てくるような店が、
鶯谷に実在することを知った。
訪ねてみると、普通のマンションの部屋で、
脱サラ風の紳士がひととおりのシステムを説明してくれた。
「女の子はネグリジェを着てベッドに寝ています。年齢は秘密ですが、肌のきめで察してください。セーラー服も用意していますが、クリーニング代がプラスになります」
ライト1つの暗い部屋に入ると、小さな女の子が寝ている。
震えていた。
1時間いじくりまわし、太腿に放出した。

鶯谷の店に通いつめるうちに、同じコンセプトの店が、
高田馬場にもあることを知った。いまもある「さくら」。
「さくら」は1988年創業だが、
同じ頃に新大久保駅近くにできたのが「にんじん」。
喫茶店で夕刊フジを見たら、開店紹介レポートが出ていた。
「新しい風俗・・・イメージクラブ」といった調子で。
すぐに電話して訪ねると、水色の夏服セーラーがあるという。

夏服セーラーを初めて導入した店が「にんじん」だった。
値段は12000円、これは「さくら」よりリーズナブル。
鶯谷は年少の子が売りだが高価な上、手コキもできない子が多かった。
「さくら」も当時、完全な「眠れる美女」状態で不満があった。
「にんじん」は普通に手コキありで、満足度は高かった。

やがて「にんじん」は明治通り沿いのマンションに移った。
「ティラミス」という名前になったが店長は同じ。
脱サラ風ハゲ親父で俳優の斎藤晴彦に似た人。
地理的には不便になったが、いい女を揃えていた。

1993年頃だったか、「ティラミス」はまた大久保駅近くに移った。
電話で「ティラミスですか?」と聞くと「そうです」と言っていたが、
店に行くと「制服向上委員会」という名前になっていた。
斉藤晴彦はおらず、若い兄ちゃんが仕切っていた。
店の雰囲気も変わり、てきぱきとさばくタイプの営業になった。
「ティラミス」の素朴な、家庭的なムードはなくなった。
後にここが「すみれの会」になり、
「制服向上委員会」は八百屋の角を入ったビルに移った。

05年の風営法改正、「制服向上委員会」は早々と店舗を移した。
当初はそんなこと知るよしもなく、長く通ったあのビルが、
もぬけのからになっていて、しばらく愕然とドアの前に佇んだ。
あのときの空虚感。いったい何が起きたのかと。

現在「制服向上委員会」は、黒猫マークのホテルの近くにある。
受け付けてからホテルに行くシステムは、どうもしっくり来ない。
店舗型のよいところは、部屋に匂いがあることだった。
女の子の部屋に通っている感じ。ホテルでは味わえないファンタジー。
「さくら」はいまでもマンヘルスタイルらしい。
たまには行ってみるか。

| イメージクラブ | 22:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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